食べられるのか
命をいただく
食育について
こんにちは!きょうたです。
動物王国のような場所を作りたいと日々活動しています。
動物王国をふかぼり
前回、ニワトリを飼いたいという記事を書きました。
私たちはいつも命をいただいています。
いつか、ニワトリや豚などをいただく食育のイベントをやりたいと思っています。
採卵用のニワトリ。
通常、養鶏場では採卵率が悪くなった時点で食用になるそうです。
肉は硬くなっても旨味があるので加工用にされるみたいですね。
ある人の話によれば、生後数ヶ月の若鳥よりも
成鶏の方が美味しく、値段も高くなるのだとか。
照り焼きチキンバーガーとか好きです。
と畜できる・・・?
でも、、、と畜できる?
・・・シミュレーションしている今の時点で無理だー。
そんなことできない。
じゃあ10年後、老衰で亡くなったら?
うーん、、、それならと畜するわけじゃないし、、、
でも無理かもー!!!
結局、自分の身近にいる者たちを食すのは無理っぽい。
だって、家族同然じゃないですか。
ペットショップ時代を思い出す
ペットショップ時代をふと思い出しました。
子犬子猫を迎えた後で、「返したい」と言ってくる人たち。
迎えた翌日もありましたし、数年経ってからというケースもありました。
もちろん、お店の方に問題があったり、
契約上認められる内容であれば、返されることも
受け入れるべきなのですが。それとは別にして。
迎えてからの日の長さもさることながら、
いろんな事情があるのもわかりますが、
返すとか、要らないとか、そういう気持ちになるのが
信じられない気持ちでした。
逆に、迎えてすぐに重大な病気であることが発覚し、
契約上は返すこともできるけど、
「一度迎えたらもう家族ですから、返すなんてことは考えられません」
という方もいらっしゃって。
そういう感性、感覚というのは人それぞれ違うものなのなぁ、、、
と思いました。
自分から遠い存在ならば
狩猟はまた違う。別だ。
まだ免許すら持っていませんが
狩猟で取れた動物なら食べられる気がします。
都合が良いと思われても仕方ないけれども、
自分から遠い存在であれば、食べることもできる気がする。
自分の身近にいて家族同然の暮らしをしていたら、
亡くなった後だったとしてもそれ食べるなんて考えられません。
罪悪感からの宗教・儀式
これは私の勝手な解釈ですが、
山の神とか自然とかに感謝したり、
生贄とか儀式にすることで罪の意識を無くしたり、
そういうところから宗教というのが生まれたのかもしれないなー
と思っています。
結論は先送りですがまとめ
人間は技術的、能力的には可能なことであっても、
感情が許さなくて「できない」ことがたくさんあるんだなと思いました。
でもそれが人間らしさでもあるのだと。
猫や犬は家族同然に生活していた他の家畜も、
食べてしまう可能性があると思います。
(これも人間同様、そうしない子たちもいると思います)
ふーん。そんなもんかね?人間ってめんどくさい動物なんだな。
あぁ、そうだよ、それが人間って動物なのさ。